[雑記] アイドルを彼女に持つということ

[雑記] アイドルを彼女に持つということ

(おことわり)この話に登場する人物・名称等はフィクションです。

後輩の話である。いや、正確には後輩というよりも、僕と一緒に働いているパートナー会社の年下社員のことだ。彼の名前は横内くん(仮称)。20代半ば。このIT業界に入って今年で3年目となる。普段、僕とはそこまで深い関わりもなく、会話は仕事についてせいぜい二、三言葉を交わす程度である。なお、決して仲が悪いわけではない。

先月くらいのことだ。ある案件のリリースを行い、その日の深夜にリリースした物件の初動確認を行うというイベントがあった。同じパートナー会社のリーダーである住岡さん(仮称)と、その物件を担当した横内くん、そして僕の3人で体制を組み、その確認を行う手筈となっていた。リリース自体は21時頃に終わったが、その物件の初動は翌4時。実に7時間もの間、何をするわけでもなく会社に残っていないといけなかった。最初は3人で夕飯を食べに行ったり、日中出来なった仕事を片づけたりして時間を潰していたが、それもすぐに終わり。残り3時間くらいになったときには「もう仕事はやめてのんびり待ちましょう」と、ダラダラすることにした。

黙っていると眠たくなるので、自然と3人は会話をした。休みの日は何をするかの話、子どもの話、独身時代の武勇伝…。どれもたわいのないものだ。僕と住岡さんは年が近いので、どうしても家族の話が多くなるが、横内くんはまだまだ若手。「そういえば横内くんのところはどうなの?」と話を振ると、彼は少し困った顔でこう答えた。「そうですね、最近彼女の仕事がうまく続かなくて困ってます」

お、これはメンタル的な何かかな?と僕はうがったことを想像しつつ、横内くんに先を促した。曰く、いろんなバイトやパートを転々としているが、どれもすぐに辞めてしまう。仕事を始めてしばらくすると、仕事に行きたくなくなって、朝に起きられなくなる…とのこと。ははぁ、どうやら横内くんは、ある程度彼女に自立をしてほしいと思っているに違いない。最初の想像からは大きく外れていなかったな、と僕は思った。「そうかぁ。まあ仕事が嫌になることは僕らもままあるからね。現に今だって眠いし」と言ってみんなで笑った。時間は2時を過ぎていた。

「いまは彼女、どうしてるの?」と僕が聞くと、「前にやっていた仕事を最近また始めました。まあ、その仕事は彼女に比較的あっているみたいなので、しばらくは続いています…」と横内くんは少し苦笑いをしながら答えた。「続けられる仕事もあるんだ。だったらそれでいいんじゃない?」と僕が言うと、「ええ、まあ…」とどうにも煮え切らない様子の横内くん。あれ、もしかしてやましい仕事だったりするのかしら、と若干不安になってくる僕。でも気になるのでどんな仕事をやっているのか聞いてみたところ、「モデルです」と意外な答えが返ってきた。

「あ、モデルと言っても、カメラが好きな人とかが集まって撮影会をするような…ポートレートモデルってやつでして。グラビアとかそう言うのではなくて、もっとこう、公園とかで撮影をするような」と横内くんは補足してくれた。ポートレートモデル。カメラ系のニュースサイトで、時折新しいカメラが発売されたときのレビューとかで、作例に出てくる方々のことだろうか。それだと、ずいぶんちゃんとした仕事のように思えるし、それが彼女にあっていて、長く続けられるんだったら、横内くんの悩みは解消されるんじゃないかと考えていたら、住岡さんが「ああ、そういうことね」とやけに納得した顔で頷いていた。住岡さんは横内くんの上司で教育係だ。僕よりも横内くんのことを知っているはずなので、何か僕の知らない情報を持った上で気がついたことがあるのかもしれない。「そういうことって、どういうことですか?」と僕は住岡さんに聞いた。すると住岡さんは「横内の彼女、アイドルなんですよ」と言った。「えっ?」と思わず僕は聞き返した。

「まじですか?」
 「あ、とは言っても元、ですけどね。元アイドル」
 「元アイドルって、それでもすごくないですか」
 「すごいっすよね。俺も聞いたときまじで?って思いましたもん」

そのとき、僕の頭に浮かんだのは「小説家になろう」や「カクヨム」と言った、Web小説サイトだった。僕はラブコメが好きで、それらのサイトでよく読んでいる。30代後半になる今でも、作中の男女の恋模様を見てはキャッキャしているおじさんなのだ。そんなラブコメの定番ジャンルの一つに「ヒロインがアイドル」というものがある。アイドルゆえに隠さないといけない男女の関係、会えない日々、ファンとの付き合い…あたりが面白さのポイントだ。当然ながらこれらは空想の産物であり、現実世界ではそうそうお目にかからないシチュエーション…と思っていたら、元とはいえ、目の前のそれを体現している人がいるなんて。

僕は興奮を抑えつつ、横内くんを見た。彼はそれでも少し困り顔で「ええ、まあそうなんです」と答えた。「もしかして、現役のときから付き合ってたりした?」「はい、付き合ってました」元とはいえ、じゃない。空想は現実だったんだ。ちょっと何を言っているのかわからない。「当時は付き合っていることを周りに言えなくて大変でしたよ…」なんてめちゃくちゃ熱いキーワードをつぶやいたりする横内くん。初動確認そっちのけで朝まで問い詰めたい気持ちで一杯だったが、そういえば当初の彼の悩みは何だったろう?僕は一度冷静になり、改めて聞いてみた。

「元アイドルって言うのはわかったけど、今のモデルの仕事だと何か不都合があるの?」
 「ええ…。ほら、元、とは言え、当時活動していたときのファンは今でも健在なんですよ。なので、撮影会とかにも顔を出してくれたりするんです」
 「あぁ、ファンの気持ちって言うのはすぐに消えたりしないもんねえ」
 「そうなんです。で、そこで昔なじみのファンとかとやりとりがあったりするんですけど、やっぱりプレゼントとか、手紙とかもらったりするんですよね」
 「あーありそう。そういうの」
 「で、その手紙とか僕も見せてもらったりするんですけど…、その、内容が結構すごいというか、エグいというか…」
 「あー」

具体的にどういう内容だったの?と、僕はそれ以上聞けなかった。横内くんが、苦虫をすりつぶしたような顔をしていたからだ。ファンには若い人もいれば、親世代くらいのおじさん方もいるという。僕はすこし身震いした。そうか、だから彼は、この仕事を彼女に続けてほしくはないと、そう考えているのか。ようやくそこで、彼の悩みを僕は理解したのだった。

ラブコメだったら、紆余曲折はありながらも、アイドルが彼女である、という優越感に主人公は少なからず浸るものだが、今、その主人公を目の前にすると、なんというか「大変だな」という感想しか僕は抱けなかった。この世の中に、アイドルを彼女にした人はそんなに多くはないはずだが、彼と同じようにこうした苦労をしているのだろうか。そう思いにふけっていると、住岡さんが「ところでその撮影会、1回でどれくらい稼げるの?」と横内くんに聞いた。

「1人7,000円ですね。撮影会後の懇談会参加も含めたら12,000円です」
 「え、何それ高い」
 「それでだいたい1日の撮影会で5万とか7万とか稼ぐんですよ。だからなかなかやめてって言うのも言いにくくて…」

僕はまた身震いした。時間は3時を過ぎようとしている。こんな時間まで会社にいて頑張っても、僕のおこづかいは2万円を超えない。

世の中にはいろんな仕事がある。聞けば、横内くんの彼女は、人を介さずに、自分でその撮影会をプロデュースしているとのこと。だったらもう、それを本業にして、年齢が過ぎてもプロモーターとして他のモデルさんを運営していくようにしたらいいんじゃないか。アイドル万歳。彼も彼女も、僕とは住む世界が違うようだ。「横内くんも、彼女が独立して仕事が軌道に乗ったら、今の仕事を辞めて手伝ったらいいじゃない?」と絞り出すように僕が言うと、彼は少し微笑みながら「それもいいですね」とはにかんだ。

4時になり、初動確認は5分で終わった。